南極観測60周年を振り返って~永田武先生から学んだもの

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日本極地研究振興会常務理事 福西 浩

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南極昭和基地から見たオーロラ

 今年は南極観測60周年を祝う記念行事が各地で開催されている。1956年11月8日、南極観測船「宗谷」が永田武観測隊長率いる観測隊員53名、乗組員77名、計130名を乗せて東京港晴海埠頭を出航した。そして翌年の1957年1月29日にオングル島に昭和基地が開設され、西堀栄三郎越冬隊長率いる11名の越冬隊の未知への挑戦が始まった。  南極観測は、1957~58年の国際地球観測年(IGY)の中で実施された。IGYは地球科学研究史上初めての画期的な観測・研究事業であった。有限な天然資源、自然災害、人間活動による環境汚染の問題に対処するには、世界の研究者が協力して、地球全体の自然環境を組織的、計画的に観測・研究しなければならないという理念のもとで、国際学術連合(ICSU)のIGY特別委員会(CSAGI)で立案され、実施された。南極域の観測計画は、IGY特別委員会の南極部会で検討された。  日本は戦後10年しか経っていない時期だったので、IGY国内委員会は大規模な準備を必要とする南極観測をあきらめ、東経120度子午線帯にある赤道諸島に観測網を敷く計画を立てた。しかしこの地域を支配していた米軍から拒否され、代わりに赤道諸島域の観測は米国が実施することとなった。ちょうどこの頃、朝日新聞社から、「IYG南極観測に日本が参加できるなら全力で応援する」との意向が日本学術会議の茅誠司会長に伝えられ、茅会長が南極観測に参加することを決断された。そして茅会長とIGY国内委員会の長谷川万吉委員長は、国際的な交渉を永田武委員に一任された。当時、永田武委員は東京大学理学部の助教授で、岩石残留磁気の研究やオーロラ・地磁気変動現象の研究で国際的にすでに高い評価を得ており、米国、ソ連(現ロシア)、ヨーロッパに多数の親しい研究者仲間をもっていた。 南極観測のために奮闘した永田武先生  日本の南極観測参加が国際的に承認されたのは1955年9月にベルギーのブリュッセルで開催された第2回IGY特別委員会総会であった。当初、オーストラリア、ニュージーランド、英国は、日本の国際舞台への復帰は時期尚早と主張したが、IGY南極部会に日本からただ一人出席した永田武先生は、日本の地球科学に対する過去の実績や、アムンセンとスコットの南極点一番のり競争が演じられたその年に、南緯80度5分まで到達した白瀬南極探検隊の挑戦を語り、米、ソ両国の強い支持もあり、最終的に全会一致の形で日本の南極観測が承認された。この事情は「南極外史」の中に詳しく書いている(永田武、1981)。

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写真右が第1次~第3次南極観測隊長を務めた永田武先生

 IGY南極部会では南極観測に参加する国として、アルゼンチン、オーストラリア、ベルギー、チリ、フランス、日本、ニュージーランド、ノルウェー、南アフリカ、ソ連、英国、米国の12か国が承認され、次に各国が分担する観測地域の検討に入った。日本の観測地域としてはピーター一世島(69°S、91°W)が提案されていたが、地球科学の総合観測をするには小さすぎることから、永田武先生は南極大陸に観測基地を建設することを強く希望した。ノルウェーが南極大陸に観測基地を建設する計画を断念したことから、西経27度の英国ハレーベイ基地から東経63度のオーストラリア・モーソン基地までの広大な地域が観測の空白域となることが分かり、ノルウェーが領有宣言をしていた東経30度から45度の扇状区域内外の探査を日本に任せるとの提案が南極部会であり、永田武先生がこの案を了承した。 中学時代の夢は南極観測隊への参加  昭和基地が開設された1957年はまた宇宙時代の幕開けとなった年である。10月にソ連が世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功した。ちょうと私の中学時代の出来事で、もともと自然現象について考えることや、自然の中で体を動かすことが好きだったので、南極観測隊に参加して、宇宙空間の現象であるオーロラの研究をすることが中学時代の夢になった。  この夢を進学した都立戸山高校でも持ち続け、オーロラの研究はどのような学問分野でやっているのか、またその学問分野で先端的な研究をやっている大学はどこかを調べた。その結果、オーロラの研究は超高層物理学の分野で行われており、南極でのオーロラ研究は東京大学理学部地球物理学科の永田武研究室で行われていることを知った。そこでこの研究室に入ることが高校時代の大きな目標になり、勉学に励み、東京大学に入学することができた。東京大学では理学部物理学科地球物理学コース卒業後、理学系大学院地球物理学専攻に進学し、念願の永田武先生の研究室に所属することができた。 永田研究室で研究を始める  永田研究室では平沢威男先生に指導していただき、地磁気脈動の研究を始めた。永田先生には研究結果を時々報告する程度だったが、多くのことを学んだ。先生が大事にされていたことは、従来の方法にとらわれない新しい方法で研究を進めること、観測の結果を理論的に解釈すること、その解釈をセミナーで徹底的に議論すること、結果はすぐに英文論文にして発表すること、そして全てをスピード感を持って進めることだった。  研究室のセミナーはいつも活気にあふれており、学生と教員の区別なく、互いに自由に問題点を厳しく指摘する場だった。永田先生はとても怖い先生だとよく言われていたが、それは決めた方針や期日を厳守するという意味での厳しさで、研究面では自分の解釈を学生に押しつけることはなかった。当時の状況を今振り返ってみると、研究費や教員数、実験装置のレベルなど、全ての面で欧米に差をつけられていたにもかかわらず、国際学術誌で高い評価を受ける研究論文を教員も大学院生も次々と書いていたことは驚くべきことだったと思う。永田先生は常に世界を相手にしていたのだ。 南極観測隊に参加してオーロラの謎に迫る  永田研究室に所属していた博士課程2年の時に念願の第11次南極地域観測隊の越冬隊員になり、新しく開発したティルティング・フィルター方式の掃天フォトメータでオーロラの観測を昭和基地で実施した。この観測装置の独創的な点は、電子によって発光する通常の明るいオーロラの光に隠されて見えない陽子(プロトン)によって発光するオーロラだけを分離して観測できることで、等松隆夫先生の指導のもとで装置を開発した。得られたデータの詳細な解析から、オーロラ嵐中のプロトンによって発光するオーロラの発達過程を明らかにし、博士論文とした(Fukunishi, 1975)。この研究成果が国際的に高い評価を受け、西田篤弘先生の紹介で1973~1975年に米国ATTベル研究所に留学し、ランゼロッティ博士のもとで地磁気脈動と磁気圏の電磁流体波動の研究を進めた。ちょうどその時期に国立極地研究所が創設され、永田武先生が所長に、平沢威男先生が超高層物理部門の助教授になられた。  留学2年目の終わり頃、平沢先生から超高層物理学研究部門の中心プロジェクトとして南極ロケット観測を実施するので、責任者として働いてくれないかと声をかけられ、1975年4月に極地研究所の教員になり、その年の秋に第17次南極地域観測隊の越冬隊員として南極に向けて出発し、昭和基地で南極ロケットプロジェクトを担当した。その後、第26次南極地域観測隊(1985/86年)では越冬隊長として南極ロケットプロジェクトの最終年を担当した。
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ロケット班の隊員たち(第26次越冬隊)

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昭和基地から発射されたオーロラ観測用ロケットS-310JA-12号機(1985年7月12日、南極大陸S-16地点から撮影)

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ロケット発射台で(第26次南極越冬隊)

 南極では少人数で大きなプロジェクトを実施しなければならないので、綿密な行動計画と強いテームワークが必要となる。さらに、越冬隊に3度、夏隊に1度参加した経験から、南極の厳しい自然の中で困難なプロジェクトを進めていく上で最も大事なものは「知的情熱」であると確信した。スコット南極探検隊に参加した動物学者チェリー=ガラードの著書「世界最悪の旅」の終わりに、「探検とは、知的情熱の肉体的な表現である」と書かれてあるが、自分が最も共感できる言葉だ。 東北大学で新たな研究分野に挑戦  1986年4月に国立極地研究所から東北大学に移ったが、その理由は大家寛教授からの、東北大学をアメリカのUCLAのような新しい宇宙空間物理学の拠点にしたいので協力してくれませんかというお誘いであった。大家教授が目指した方向は、永田武先生が目指した「チームによって新しい研究領域を切り開く」という方向と同じだったので、喜んで東北大学に行く決断をした。 東北大学では当初、超高層物理学研究施設で研究・教育活動をしたが、その後、惑星大気物理学分野の新設に努力し、この分野を担当することになった。同時に、超高層物理学研究施設と地磁気観測所を惑星プラズマ・大気研究センターに改組することにも努力した。  研究面では、教員と大学生が一丸となってオゾン観測用の赤外レーザーヘテロダイン分光計、大気光イメージャー、超高層雷放電発光現象を捉えるためのアレイフォトメータやELFセンサー、火星探査衛星「のぞみ」搭載紫外撮像分光計などの機器を開発し、また数値シミュレーション手法の開発も進めた。さらに、名古屋大学太陽地球環境研究所の研究グループと共同であけぼの衛星搭載磁力計の開発と観測データの解析を進めた。  新しい観測機器の開発、データ解析、数値シミュレーションを組み合わせた研究方法によって、地球の中層・超高層大気から磁気圏までの大気・プラズマ現象を、また惑星では金星、火星、木星の大気・プラズマ現象を研究対象にした。特に1995年に米国コロラド州で実施されたスプライトキャンペーンでは、エルブスの発見など大きな成果を上げることができた(Fukunishi et al., 1995)。このキャンペーンに参加できたのは、1990年から始まった米国南極無人観測所(AGO)プロジェクトのメンバーになり、サーチコイル磁力計を担当し、ベル研究所のランゼロッティ博士、スタンフォード大学のイナン教授、カリフォルニア大学バークレイ校のメンデ教授、メリーランド大学のローゼンバーグ教授らと共同研究を進めたことが背景にある。これらの研究者との絆によってスプライトキャンペーンに当初から参加することができた。 長谷川・永田賞を受賞  私は2015年11月に地球電磁気・地球惑星圏学会より長谷川・永田賞を授与された。この賞は、日本での地球電磁気学のパイオニアとして活躍された長谷川万吉先生と永田武先生の偉業をたたえて創設された賞で、宇宙科学・地球科学分野の成長を先導し、学会の発展にかかわる顕著な業績をあげた研究者に対して授与される。受賞業績は、地球大気圏・磁気圏・惑星間空間・惑星に至る広範な研究分野における新しい研究と観測手法の開拓である。

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長谷川・永田賞メダル

 この受賞を機に、これまでの研究生活を振り返ってみると、国内外のたくさんの素晴らしい研究者との出会を通して様々なご支援をいただき、共同研究によって多方面のプロジェクトを進めることができたと感じている。永田武先生が目指した「チームによって新しい研究領域を切り開く」というやり方を自分も少し実現することができた気がする。これからの時代を担う若手研究者や学生たちがこうしたやり方を継承してくれることを期待している。また、科学を発展させる上でも、研究成果を社会に役立てる上からも、研究者と社会との双方向のコミュニケーションがますます重要となっており、これからはそうした活動を担っていきたいと考えている。
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昭和基地に遊びに来たコウテイペンギンたち(第26次越冬隊)

参考文献 チェリー=ガラード,A. 著, 戸井十月訳(1994):『世界最悪の旅』, 地球人ライブラリー, 小学館, 1-272 pp. Fukunishi, H. (1975) Dynamic relationship between proton and electron auroral substorms: J. Geophys. Res., 80(4), 553-574. Fukunishi, H., Y. Takahashi, M. Kubota, K. Sakanoi (1996) Elves: lightning-induced transient luminous events in the lower ionosphere: Geophys. Res. Lett., 23(16), 2157-2160. 永田武(1981)南極観測と第二次越冬隊:『南極外史』, 日本極地研究振興会, 71-83.

福西 浩(ふくにし ひろし)プロフィール

公益財団法人日本極地研究振興会常務理事、東北大学名誉教授。東京大学理学部卒、同理学系大学院博士課程修了、理学博士。南極観測隊に4度参加し、第22次隊夏隊長、第26次隊越冬隊長を務める。専門は地球惑星科学で、地球や惑星のオーロラ現象を主に研究している。2007年4月から2011年3月まで日本学術振興会北京センター長として北京に滞在する。
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